小田原の定置網漁は箱網の入庫角度と箱の位置精度が肝で、平年水温との乖離が大きい年は回遊ルートのズレが収量を左右する。
主要データ
- 神奈川県の定置網経営体数:67経営体(水産庁「漁業センサス」2023年)
- 定置網漁業の全国生産量:約42.3万トン(水産庁「漁業・養殖業生産統計」2024年)
- 小田原地域の平均水揚げ単価:前年比108.2%(神奈川県水産課調べ、2025年実績)
- 相模湾の海面水温変動幅:平年比±1.2度以内(気象庁海洋観測データ、過去10年平均)
小田原の定置網で網元が最初に詰まる点
小田原地域で定置網を新規に立ち上げる際、最初の難所になりやすいのは箱網の設置位置であり、海図上の水深データと実際の海底地形にはずれがあるため、GPS座標通りに投錨しても潮流の影響で箱が想定位置から10メートル以上外れることがある。実際に2023年に西湘海域で新規参入した経営体では、初回の網入れで箱の位置が沖側に15メートルずれたまま1週間操業し、入網率が通常の3割程度に落ち込んだ事例があった。
背景にあるのは単純な測量不足ではなく、潮流と海底地形の読み違いが同時に起きやすい海域条件であり、小田原沖は相模湾特有の複雑な海底谷地形を持つため、表層と底層で潮の流れ方向が逆転する場所も少なくない。教科書的には「水深30メートル地点に箱網を設置」と整理できるが、相模湾では海底谷の斜面角度が急で、2メートル位置がずれるだけで水深が5メートル変わることもあるため、実際の現場では古参漁師から地形の癖を聞き取り、最低3回の試験投錨を重ねたうえで位置を詰めていく。
回遊魚の動きは水温変動に左右されやすく、相模湾の海面水温変動幅は平年比±1.2度以内で推移する一方で、その小さな差でもアジやサバの入り方は変わるため、箱網の位置精度は年ごとの収量に直結する。定置網は受動的漁法であるにもかかわらず、魚の回遊ルートがずれれば網の位置調整が必要になる点を見落とせず、神奈川県全体の定置網漁業生産量は約1.8万トン(2022年)で、全国の定置網生産量の約4.3%を占め、相模湾海域がその中心を担っている。
なぜ箱網の位置がずれるのか
箱網の位置がずれる理由は一つではなく、投錨時のアンカーロープの張力計算、季節ごとに変わる潮目の読み、さらに網そのものの劣化による浮力変化が重なり合うため、設置時には合っていたはずの位置が操業の途中で少しずつ狂っていく。とくに小田原沖の海底は砂泥質が多くアンカーが効きにくいため、通常は水深の3倍のロープ長を確保すれば十分とされるものの、相模湾では潮流が強い日に水深の4倍から5倍必要になる場合があり、ロープが短いとアンカーが引きずられて箱網全体が移動する。
潮目の読み違いも大きい。相模湾は黒潮の分枝流と沿岸流がぶつかって複雑な潮目を形成し、その位置は季節と気象条件で変わるため、春先に設置した網が夏場には潮流の影響を強く受けて位置をずらすことがある。実際、小田原漁協の複数の定置網経営体では、6月から8月にかけて月1回程度、箱網の位置を微調整している。
さらに見落としにくいのが網の劣化による浮力変化であり、定置網は常時海中にあるため網地にフジツボや海藻が付着して重量が増し、新品の網と比べて半年経過すると浮力が2割程度低下して箱網が沈み込み、結果として位置も狂いやすくなる。この現象は春から夏にかけての水温上昇期に顕著で、生物付着のスピードが速いことに加え、神奈川県水産技術センターの調査では、網地の付着生物重量は設置後3カ月で平均18キログラム、6カ月で45キログラムに達するというデータがある。
正しい定置網設置の手順
Step 1: 海底地形の詳細調査
まず魚群探知機と水深測量機を使い、設置予定海域の海底地形を1メートル単位で把握する。海図の等深線は10メートル間隔が多く、定置網に必要な精度には足りない。小田原沖では海底谷が複数走っており、谷の位置によって潮流の強さが倍以上変わる。
調査は最低でも大潮と小潮の各1回、計2回実施する必要があり、潮汐によって海底付近の流れ方が変わるため、片方の潮だけで判断すると設置後に想定外の潮流を受ける。実務では、設置予定地点から半径50メートル範囲を10メートル間隔で測深し、3D海底地形図を作成する経営体が増えている。
Step 2: 潮流パターンの記録
設置予定地点に流速計を沈め、最低72時間連続で潮流データを取る。24時間では1サイクルしか観測できず、日ごとの変動を捉えられない。72時間あれば大潮から中潮への変化も記録でき、潮汐による流速変化の幅が見える。
記録するのは流速だけでなく流向も必須であり、小田原沖では表層と底層で流れ方向が90度以上ずれることがあるため、箱網を海底付近に設置する以上、底層の流向データが網の向きを決める基準になる。この段階では、地元の定置網経営体に協力を仰いで過去の操業記録から同海域の潮流傾向を聞き取ることも有効で、数値だけでは拾い切れない季節ごとの癖を補いやすい。
Step 3: アンカー位置の仮設定と試験投錨
海底地形と潮流データをもとにアンカー位置を仮決めするが、この時点で確定させず、必ず試験投錨を行って本番と同じ重量のアンカーを使い、ロープの張力を測定しながら24時間以上放置する。アンカーが海底に食い込んでいるか、引きずられていないかをダイバーが潜って目視確認する経営体もある。
小田原の定置網では、主アンカーに300キログラム級の鋳鉄アンカーを使うケースが多い一方で、砂泥質の海底では500キログラム級に変更する場合もあり、試験投錨の結果、アンカーが10センチ以上移動していたら重量不足かロープ長不足と判断される。その場合は条件を変えて再試験し、ずれの原因が海底質なのか潮流なのかを切り分けながら本設置に進む。
Step 4: 箱網と垣網の展開
アンカーが固定できたら箱網を展開する。箱網は魚を蓄養する部分で、小田原では一辺が15メートルから20メートルの方形が主流だ。展開時は必ず凪の日を選び、時化の日に無理して展開すると網地が絡まり、修復に丸一日かかる。
箱網の四隅に浮標を付けて位置を固定し、この浮標の位置精度が入網率を左右するため、GPSで座標を記録しながら設計図との誤差が5メートル以内に収まるよう調整する。5メートル以上ずれると、垣網からの誘導ラインが箱網の入口とずれ、魚が箱に入らず素通りしやすくなる。
垣網は海岸から沖に向かって放射状に張り、回遊魚を箱網に誘導する役割を持つ。小田原では垣網の長さは200メートルから300メートルが標準的だが、海底地形によって調整する。垣網の高さは海底から水面まで届く必要があり、潮流で網が倒れないよう浮子と沈子のバランスを取り、浮子間隔は2メートル、沈子間隔は1.5メートルを基本として組み上げるため、設計値の確認と現場での張り具合の見極めを同時に進めることになる。
Step 5: 操業開始後の微調整
網を設置しても、最初の1週間は入網状況を毎日確認し、必要に応じて箱網の位置を微調整する。初回操業で想定通りに魚が入ることは稀で、ほとんどの場合は2回から3回の位置調整が必要になる。調整幅は大きくても10メートル以内に抑え、それ以上動かすと垣網全体を張り直す必要が出る。
入網率が低い場合、まず疑うのは箱網の入口角度であり、潮流に対して入口が斜めになっていると魚が入りにくいため、入口は潮流に対して正面を向くのが理想となる。角度のずれが10度以内に収まるよう浮標位置を調整し、次に垣網の高さを確認して、網が潮流で倒れているようなら魚が網を飛び越えて逃げるため、ダイバーを潜らせて網の立ち具合を見たうえで浮子を追加するという流れになる。
前提条件と必要な資材
小田原で定置網を始めるには複数の前提条件を満たす必要があり、まず漁業権の取得が欠かせない。定置網は第一種共同漁業権または定置漁業権の対象で、小田原漁協の組合員資格が必要であり、組合員になるには地元在住が条件となるため、新規参入者は最低1年から2年の見習い期間を求められる。
次に必要なのが船舶と人員で、定置網の操業には最低5トン級の漁船が必要となり、乗組員は最低3名、理想は5名とされる。網の引き上げ作業は人力では不可能であるため油圧ウインチを装備した船が必須であり、小田原では中古の5トン級漁船が500万円から800万円で流通しているが、ウインチの後付けには別途150万円程度かかる。水産庁「漁業センサス」(2023年)によれば、定置網漁業経営体の従事者数は全国平均で1経営体あたり5.2人となっており、小田原の標準的な操業体制もこの水準に近い。
資材としては、網地、ロープ、アンカー、浮子、沈子が必要であり、小田原の標準的な定置網では、網地が延べ1500平方メートルから2000平方メートル、ロープは直径20ミリメートルのものを500メートル以上使う。網地は1平方メートルあたり3000円前後、ロープは1メートルあたり200円前後が相場で、アンカーは300キログラム級が1基15万円程度、浮子は1個500円から1000円、沈子は1個300円から500円とされ、数量が増えるほど初期費用の見積もり差も広がりやすい。
これらを合計すると、初期投資は最低でも1500万円から2000万円になり、水産庁の「水産業競争力強化緊急事業」では定置網の新設・改良に補助が出る場合もあるが、条件は年度ごとに変わるため、水産庁の最新告示を確認したうえで資金計画を組む必要がある。制度の有無だけで判断せず、操業開始後の維持費まで含めて見通しを立てる姿勢が求められる。
プロと初心者で差が出る三つのポイント
箱網の入口設計
初心者は箱網の入口を広く取れば魚がたくさん入ると考えがちだが、実際には入口が広すぎると魚が出ていく確率も上がるため、小田原のベテラン網元は入口の幅を箱網全体の幅の3分の1から4分の1に抑える。これは魚の遊泳行動に基づく設計で、狭い入口の方が一度入った魚が出口を見つけにくいという性質を利用している。
さらにプロは入口に「返し網」を付けており、返し網は入口の内側に斜めに張る小さな網で、魚が外に出ようとすると網に阻まれて引き返す仕組みだ。返し網の角度は潮流の強さに応じて調整し、流れが強い場所では45度、弱い場所では30度程度に設定するため、この調整ができるかどうかで入網後の逃亡率が2倍以上変わる。
網揚げのタイミング判断
定置網は毎日揚げるのが基本とされるが、小田原では時化が予想される前日に揚げないという判断をする網元もおり、時化の日は魚が網に入りやすいため、揚げずに置いておくと翌日大漁になることがある。ただしこれは賭けであり、時化が予想以上に強い場合は網が破損するリスクも抱える。
プロは気象情報だけでなく、海面の様子と魚群探知機のデータを総合的に見て判断しており、海面に小さな波紋が広がり始めたらその下に魚群がいるサインとみなす。魚群探知機で箱網周辺に反応があれば、時化でも網を揚げて水揚げし、逆に魚影が薄ければ無理に揚げず翌日まで待つため、この判断の精度が年間の水揚げ量を左右している。
網地の目合い選択
網地の目合いは対象魚種によって変える必要があり、小田原ではアジ、サバ、イワシが主な対象魚種で、それぞれ適した目合いが異なる。アジは体高があるため目合い30ミリメートルでも逃げにくいが、サバは体が細長く目合い35ミリメートル以上でないと小型個体が抜け、イワシは群れで動くため目合いよりも垣網の高さが重要となる。網が海面まで届いていないと群れごと逃げる。神奈川県「神奈川県水産業振興計画」(2023年度)では、県内定置網漁業の主要魚種はアジ類、サバ類、イワシ類で水揚げ量の約7割を占めると報告されており、小田原でもこの3魚種が操業の中心となっている。
初心者は一種類の目合いで全ての魚種に対応しようとするが、プロは季節ごとに網地を張り替えており、小田原では春から夏にかけてアジが多いため目合い30ミリメートル、秋から冬はサバ主体になるため目合い40ミリメートルに変更する経営体が多い。網地の張り替えには丸一日かかるものの、この手間を惜しむと年間水揚げ量が2割から3割減る。
現場での判断基準三則
潮色の変化を見る
小田原沖では黒潮分枝流の影響で、潮色が青から緑に変わることがあり、青潮は透明度が高く栄養が少ない外洋水、緑潮は植物プランクトンが多い沿岸水を指す。アジやサバは植物プランクトンを餌にする小魚を追うため緑潮の日は入網率が上がる一方で、青潮の日は魚影が薄く、網を揚げても空振りに終わることが多い。
潮色の変化は肉眼でも判別できるが、プロは透明度板を使って数値化しており、透明度が10メートル以上なら青潮、5メートル以下なら緑潮と判断する。この基準をもとに網を揚げるか放置するかを決め、透明度板は漁具店で2000円程度で買えるものの、使っている経営体は意外に少ない。
網の張力変化で入網を察知
箱網に魚が大量に入ると網全体の張力が変わり、ベテラン網元は船上から網に繋がったロープの張り具合を見て入網量を推測する。ロープがピンと張っていれば大漁、たるんでいれば不漁という見立てであり、この感覚は経験で身につくもので、最低2年から3年の操業経験が必要になる。
最近は張力センサーをロープに取り付け、スマートフォンでリアルタイムに確認できるシステムも登場しており、神奈川県水産技術センターと地元の定置網経営体が共同開発したもので、導入費用は30万円程度だ。センサーの数値が設定値を超えたらアラートが鳴る仕組みで無駄な出航を減らせるが、機械に頼りすぎると潮流による張力変化と入網による張力変化を区別できなくなるため、導入後も人の見立てを重ねて運用する必要がある。
鮮度管理の分岐点
定置網で獲れた魚は活きが良い反面、網の中で長時間放置すると鮮度が急速に落ち、特に夏場は水温が高いため、網揚げから2時間以内に氷締めしないと商品価値が下がる。入荷が増える日ほど単価差は鮮度に表れやすいため、同じ魚でも揚げた後の扱いが価格を左右する。
小田原の優良経営体は、船上に活魚水槽を積み、網から揚げた魚をすぐに水槽に移しており、水槽内で30分程度泳がせると魚が網の中で受けたストレスが抜け、身の締まりが良くなる。その後に氷締めすれば市場での評価が上がり、活魚水槽の導入には50万円から80万円かかるが、単価が1キログラムあたり50円上がれば年間で元が取れる。
鮮度の分岐点は魚体表面の粘液量で判断し、網から揚げた直後の魚は体表がぬるぬるしているが、時間が経つと粘液が減って体表が乾くため、乾き始めたら鮮度落ちのサインとしてすぐに氷締めする。粘液がまだ残っていれば活魚水槽に移して鮮度を保つことができ、この判断を誤ると同じ魚でも単価が3割変わる。
この記事は「漁業経営改善ガイド — 既存漁業者のための収益改善戦略」の関連記事です。漁業に関する体系的な知識はこちらのガイドをご覧ください。
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